ママンの書斎から

アラフォーママンの考えごとや読書記録

こんな作文指導がしてみたい

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母親になって間もないころ、浜文子さんの『育母書』という本に出逢いました。

母親としての自分に寄り添い、育ててくれる本だと感じ、今でもずっと手元に置いています。

このブログを立ち上げて、最初に書いたのも、『育母書』についての記事でした。

 

www.mamannoshosai.com

 

↑ 今となってはいろいろ稚拙でこっぱずかしいですが、「母親、教育、書くこと」という私のコンセプトは、2年半経った今でも、ずっと変わっていないのだなぁと、自分でもちょっとびっくりします(^_^;)。

 

浜文子さんの文章は、「あぁ、そうそう……そうなんだよね……。」と心の深いところに沁みわたり、私の心のモヤモヤがピッタリの言葉に言語化されることによって、カタルシスをもたらしてくれます。

いつもその文章力には舌を巻き(文筆家ですから、当たり前なんですが)、自分もいつかこんな文章が書けたら良いな、と、憧れるのです。

 

そんな浜文子さんが、作文指導の本を出されたことを知って、飛びついたことは言うまでもありません(^_^;)。

 

『浜文子の「作文」寺子屋』という本です。

 

 

 この本も、読んでみたらやっぱり感銘をうけましたので、今日はそのことを少しまとめておきたいと思います。

 

 

 

心と言葉を共に育てる 

 

作文には「型」があると言われます。

でも、語彙が十分でないのに、型だけ学んでも、内容のないスカスカの作文になりますし、語彙だけ増えても、深く感じる心が育っていなければ、屁理屈を並べただけの文章になってしまいます。

心と言葉が共に育つことが大事で、それができるのは、家庭や、身近な大人との会話なんですよね。

 

浜さんの「作文」寺子屋に来ている小学3年生の男の子が、オノマトペを使った文を書く課題で、自宅での朝の風景を、こう書きます。

……弟はノロノロとパジャマを脱いでいてお母さんがガミガミ叱りました。

今度はそれを、「ノロノロ」「ガミガミ」といったオノマトペを使わないで表現してみましょう、とやってみます。

すると、苦心の末、

……弟は、やる気のないようすでのんびりと手を動かし、パジャマを脱いでいて、お母さんは、体中のエネルギーを声に集め、大声で弟を怒りました。

という文章ができあがりました。

オノマトペの文章も良いけれど、オノマトペ禁止の文章の方が、面白いですよね。

「お母さんが体中のエネルギーを声に集め」って、様子が想像できて、笑っちゃう。

 

また、高校生には、彼らの廊下での会話をプリントして配ったそうです。

英語のテストは、ヤバイ結果だったけど落ち込んでもヤバイし、……

 

新しくできたラーメン屋……ヤバイ味だと評判だったけど食べてみるとほんとにヤバかった。

 

財布がヤバイことになってヤバかった。ぼくが立て替えなければマジでヤバイことになっていた。

 

これらを「ヤバイ」を使わないで書きましょうと言ってみたら、生徒たちはゲラゲラ笑いながら「ヤバーイ!」と叫んでいたそう(笑)。

 

良くても悪くてもとりあえず「ヤバイ」。

「ヤバイ」に頼りすぎていた高校生たちが、「ヤバイ禁止令」のあと、どんな文章に直したのか、気になります(^▽^;)。

 

それにしても、ただ「書いてみなさい」ではない、さまざまなアプローチ。

こういう授業なら、型や技術だけが先行せず、心も育てながら、語彙を増やすことができるのではないかな、と思います。

うちの息子なども、語彙が足りないなあ、と感じるわけですが、機嫌のいい時を見計らって、こんな会話を楽しみながら語彙を増やす試みをしてみたいと思いました。

 

教材にこだわる

 

浜さんは、寺子屋や高校の講座で、使う教材にも、とてもこだわっていらっしゃいます。

名詩や、名画、穴のあいた葉っぱ……。

どういう素材を使って、どう子どもの内面に迫り、どう言葉を引き出すか。

 

パリに住んでいたころ、子どもたちの通う公立の小学校で、教師たちが授業に用いる教材が先生自身の手で選ばれていたこと、何を教えるかに一定の目的はあっても、どう教える科の方法論が、教師の裁量に委ねられていたのを日頃からとても良いことだと感じていた。

 

教える側に、まず教材への「これを用いたい」という情熱・熱意がなくては、子どもに伝わらない。

 

小さいころ、テレビで『大草原の小さな家』や『赤毛のアン』を観ていると、教会が学校になっていて、教師は1人で、その先生が年齢の違う子どもたちを一手にみて、それぞれのレベルに合った課題を課す、という授業をしていました。子どもながらに、ああいうスタイルの授業はいいな、と憧れていたのです。

教師の技量が問われるスタイルだけれど、少なくとも、今の日本の公教育のように、決められたカリキュラムに押されて、教師の裁量の入る余地がない、ということは無さそうです。

こと「作文」においては、受験やカリキュラムから少し離れて、情熱を持った教師のもとで、じっくりと言葉を探す体験が必要なのではないかな、と思うのです。

 

   

 

 

日常の表現

 

「表現」は、日常を通し、育つものであり、暮らしの中で育っていくのだと思う。

 

とおっしゃる浜文子さんの、ご家庭でのエピソード。

娘さんが、ある文庫本を探していた時、浜さんは、面白がりながらこう言ったそうです。

「階段の、あと三段で二階という辺りで足を止めて。”あら、こんな所に可愛い花が”という感じで、腰をかがめてごらん。パンジーくらいの背丈の花を見つめるつもりで見る目の位置くらいに、文庫の写真集あるはずよ

無事にお目当ての本を探し当てた娘さんは笑って、

「ははは……!お見事。下から六冊目にありました!

 

また、浜さんが高校生に作文の講座をされていた時のエピソードも面白いんですよね。

授業終了より五分早く書き終えた生徒たちが、昼食を買いに行きたいと願い出たのだそうです。でもほかのクラスはまだ授業中なので、廊下で騒がれては困ります。そこで、浜さん、

「みんな、能舞台に立つ役者になったつもりで、教室を出て、ソロリソロリ、シズシズと歩いて、そのままの姿で教室に戻って来られる?教室の外は能舞台よ」

すると生徒たち、素直に

「すり足だね」「腰を下として、歩幅も小さく……」「顔も首も動かさない」

と浜さんに念を押して確認し、やがて、弁当やパンの入った袋を下げて、ソロリソロリ、シズシズと、頭一つ動かさず、教室へと戻ってきたそうです。揃って笑いをかみ殺した表情で、なんだかひどく楽しそうに(笑)。

 

表現は日常から生まれるもの、といわれると気負ってしまいそうになりますが、こういうやりとりはとても楽しく、自然に語彙が増えそうですよね(*^-^*)。

 

「お母さん、あのね」

 

子どもの言葉を豊かにするには、家庭での会話が大事。

理想論と言われるかもしれないけれど、努力する価値はあると思います。

 

「読み、書く」ことは、「聞き、話す」ことに支えられてゆっくりと立ちあがる。

書くことは、「お母さん、あのね」という語りかけの先に形になるものだということをあらためて思う。

 

うちの子どもたちは、「言葉」に関しては対極的です。

 

息子は、よくしゃべるけれども国語や作文は嫌い。言葉の感覚も、私の感覚とはだいぶ違います(^_^;)。「刹那」とかね……。

娘は、必要がなければ喋らないけれど、国語は好きで本もよく読むし。書かせると、けっこう書きます。

 

私は、言葉を授ける家庭教育が上手くいっているのか、正直なところ、自信がありません。

 

私は子どもの「お母さん、あのね」を、じゅうぶんに大事にしてやれた?

息子の国語嫌い、娘の寡黙さ。それは私の接し方が何かまずかったせい?

ちょっと悩んでいたりするのです(^_^;)。

 

でも……たぶん、今できることは、可能なかぎり会話をすること。

息子とバトルになろうとも、娘の反応が薄くとも、母はしゃべり続けるわ!

 

「あら、こんなところに可愛い花が、といった感じでしゃがんでごらん。あ、カマドウマのように∧( 'Θ' )∧しゃがんではダメよ。ズボンのおケツが破けるからね。」

とか、

「うちのリビングを能舞台のようにソロリソロリと歩いてごらん。そう、チョ〇レート・〇ラネットのようにねd(^_^o)」

などと、持てる限りの語彙を駆使して子どもを笑わせてみたい( ̄▽ ̄)。子どもに語りかけたい。

全力で拒否されそうですけれども(^▽^;)。

 

長くなってしまいましたが、浜文子さんの作文指導の実践には、アプローチの多彩さ、普段の暮らしから立ち上がってくる血の通った語彙など、さまざまな学びがありました。

 

この本も、手元に置いておくこと、決定です!

お子さんの作文力、またはご自身のブログの文章力を高めたい方に、おススメしまーすヽ(´▽`)/!

 

 

 

 

 

 

 

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