我が家には、お宝本があります。
絵本『かみさまからのおくりもの』です。著者の、ひぐちみちこさん直筆のサイン入りです。
「◯◯くんと◯◯ちゃんへ」と、うちの子達の名前も入れていただいた、家宝です。
娘が通った幼稚園で、ひぐちみちこさんをお招きした講演があり、それを聴きに行った時に書いていただいたサインなのです。
『かみさまさらのおくりもの』は、どんな赤ちゃん(子ども)にも、神様から授かった贈り物があるということを描いたシンプルな絵本です。
ある子どもは「よくわらう」という贈り物をもらって、よく笑う明るい子どもになりました。
また、ある子どもは、「ちからもち」をもらって、力持ちの元気な子どもになりました(お母さんの買い物の荷物を持ってくれているのかな?重そうなスーパーの買い物袋を両手に提げて、ニコニコしている絵があります)。
「うたがすき」をもらった子ども、「よく食べる」をもらった子ども、「やさしい」をもらった子ども……さまざまですが、最後にはみんな天を仰いで、
「かみさま すてきな おくりものを ありがとう」
とニコニコして言っています。
その子その子に授けられたものが違うのだということ。
自分に授けられたものを花開かせればいいのだということ。
他人と自分を比べて、自分に無いものを持つ人を羨んだりしないこと。
そんな含蓄に富んだ、素敵な絵本です。
子育てをするとき、
「あの子はもう歩けるのに、うちの子はまだ歩けない」
とか、
「あの子はあんなことができるのに、うちの子はさっぱり……」
などと、焦ってしまうことがありますよね。
でも、他の子に授けられているものを羨むのではなく、我が子に授けられたものは何かを見極めること、それを伸ばしてやろうとすることが大事だと気づかせられます。
私も、うちの子どもたちに授けられている
「ゆっくり」
や
「地味」(笑)
は、いけないことのように感じる場面がありました。
幼稚園のお迎えに行くと、みんな太陽の光がサンサンと降り注ぐ園庭で歓声を上げながら遊んでいるのに、うちの子は、園庭の隅っこの陽の当たらないところで、ひとりで背中を丸くしてしゃがみこんで、虫を見たり泥団子を作ったりしている。キラキラと陽の光が注ぐところで歓声をあげる他の子たちの未来は明るいだろうと感じられるけど、日陰の隅っこで丸くなって何かしている我が子の将来は……?と思えて、
「……いいんだろうか?」
と悩んだこと数知れず、でした(笑)。
でも、親だけが味方になってやれるのに、他の子と比べて我が子を否定的に見るようでは子どもの立つ瀬がないなあと思ったのも事実です。
過去記事でも、
「堅苦しい」や「おとなしい」は、無理に矯正する必要はないのではないか?
ということを書きましたが、この絵本からも、そのことを考えさせられました。
幼稚園の講演会でのお話では、著者のひぐちみちこさんのお嬢さんは、
神様から
「よく泣く」
や
「ゆっくり」
を授けられていたのだそうです。ひぐちさんも、
「これではいけない」
と思って叱ったけれど、よい結果は生まなかったそうです。
お嬢さんが高校生くらいの時だったか、帰りがとても遅くて、母であるひぐちさんは、ヤキモキしながら待っていたそうですが、帰って来たお嬢さんが言うには、何かお友だちに困ったことが起きて、助けたというか、手伝ってあげていたら遅くなったのだそうです。それを聞いたとき、連絡ぐらいしなさいと怒りたい気持ちをグッと飲み込んで、
「いいことしたね」
と言ってあげられたとき、自分で自分のことを
「私、成長した!」
と思った、とおっしゃられていたことがとても印象深く記憶に残っています。お嬢さんの「ゆっくり」を、「個性」として認めてあげることが出来た、ということですよね。それは、まさに親としての「成長」に他なりません。
親にも、子育てを通して得られる
「気づき」
や
「成長」
という贈り物が、用意されていているのかなあと思いました。
この絵本のあとがきで、
神様は時に応じて贈り物を追加してくださる
と述べられており、
それならば私も、と「優しく、明るく、賢く、強く、ほっそりをください」とお願いしました。
とあります。
「ほっそり」のくだり、特に共感いたします(笑)。
うちの子たちは、そろそろ受験期に突入していきますが、自分に授けられた贈り物を見極め、納得できる進路へ進めるようにと願います。そして、親の私も、自分の見栄で子どもの適性とは異なる方向へ進ませたりしないよう、
「ママンとしての聡明さ」
をください、と、神様にお願いしているのであります。