最近、個人的にずっと疑問に思っていることがあって、久々に追求したい欲が高まり、いろいろと調べまくっています。
でも、どんなに文献をあさっても、納得のいく答えが得られなくて、ずっとモヤモヤしています。
まぁ、答えが出ないこと、割り切れない人の感情…そういうものを深掘りしたくなるのは、文学部卒のサガかもしれません。
教育心理学もかじっていたので、そっちのサガもあるかなσ(^_^;)。
この個人的な疑問の追求は、しばらく私のライフワークになるかもしれません。
(また忙しい項目を1つ増やしてしまった…しかもまったくお金にならないのに!)
最近、library に入り浸りですのよ。
その道は人の道として正しいか
文学と心理学の話になりましたが、何かを追求していくということについて、思うところを少し書いてみます。
文学部は、確かに就職にはつぶしがきかないかもしれません。
でも、人としての深みというか、周りの人間に対して、
「共感はできないけど、理解はできるよ。」
とか、
「割り切れないこと、説明のつかない想いってあるよね。」
というような寛容さを養うことができ、そういう意味では、一生役に立つ学問だと思っています。
「やっぱり人間はねぇ、文学をやらないとダメなんですよ。」
というのは、大学時代の教授の言葉です。
ここ数十年の間に、理系の方(有名な科学者やお医者様など)も、目に見えない分野のことに言及するようになってきたとも感じています。
人ってなんぞや?
自分ってなんだ?
そういう「目に見えないこと」「今の科学で説明できていないこと」について、権威ある科学者が公に語るようになったということは、人類の営みの表層で役立つことだけをやっていても生き残れない時代になってきたということなのでしょうね。
どんな学問でも研究でも技術でも、根底に「この道は、人の道として正しいか?」という深い問いがなければ、いずれ破綻するということだと思います。
刹那君は理系志望ですが、小さい頃は、よく
「地球が滅亡したらどうしよう:(;゙゚'ω゚'): 僕はどうしたらいいの?」
と寝る前に哲学してしまい、眠れなくなることがあるような子でした。
受験国語は苦手だけれど、人となりとしては、文系要素もかなり持っている理系志望だと思っています。
ママンの妄想の中の刹那。
いやだ、カッコいい(←バカ親)。
大学以降で高校時代から続けている研究を深めていくにしても、その成果を善なる目的のために使える人になってほしいと思います。
間違っても、科学技術で世界征服などという愚かなことは考えないように( `ー´)ノ!
考えてねーわ ಠ_ಠ!
自分の受け止め方を成長させる
「その道は、人の道として正しいか?」という問いを自分の中に立てることについては、ネットの世界でもよく感じているところです。
BlogやSNSで発信していると、誰も傷つけることがないように細心の注意を払って書いたつもりでも、知らず知らずのうちに誰かの地雷を踏んでしまっていてネガティブな反応が返ってくることがあり、難しいなぁと思います。
最近はありませんが、長くやってる間にはいろんなことがありましたわ…(゜-゜)…。
ごく稀ですが(4年で数件程度)、
あの表現が、そういうふうに受け取られてしまうのね〜( ̄◇ ̄;)!
と驚いた反応がいくつかありました。
でも、誰がどんな地雷を抱えているかをすべて予想して、避けて書くのは無理な話なんですよね。表現の自由もありますしね。
だから、自分が読んで傷つくことが書かれている記事があったとしても、傷つかないためには、「自分が傷ついたのは、自分の中にそのことに関する地雷(コンプレックス)があるからで、その記事自体は自分へ向けられた個人攻撃ではないのだ」という受け止め方を身につけるしかないのだと思います。
例えば、趣味などについて、自分は「Aは嫌いだ」と書いたとすると、Aが好きな人が読んだら、大なり小なり傷つくでしょう。
「嫌い」の発信は、それを好きな誰かを傷つけることがあるので、注意が必要ですよね。
どうしても書くなら、「苦手」などのマイルドな表現にするとかね…。
もう大昔の話ですが…。
ママンの母ババンは、仲間の方達とパッチワークの作品作りをしていた頃がありました。
そのことを、ある方に話したとき、
「あぁ、私、パッチワークって大嫌い。」
と言われ、それ以上何も言えなくなったことがあります。
嫌いなのは個人の自由だけれど、…それ、言わなくてもよくないですかσ(^_^;)?
と思いました。
このエピソードは、過去にも書いていました。
有川ひろさんの『倒れるときは前のめり』というエッセイを引用して、「嫌い」の公言を慎むということを書いています。
この、鋭利な刃物がいきなり飛んできたような「パッチワーク大嫌い」発言から自分自身を守るためには、
「この人がパッチワークを嫌いだと言ったのは、単に自分の中の事実を述べただけであり、パッチワークをしているババンへの個人攻撃ではないのだ。」
と、自分の受け止め方を成長させる必要がありました。
別の例では、そうですね…。
たとえば、Bという道を生き生きと歩んでいる人が、その道の楽しさを発信したとします。すると、「Bという道を選びたかったけど何らかの事情で選べなかった人」から嫉妬されてしまうかもしれません。あるいは、Cという道を選んでいる人からは、Cという道を否定されたと受け取られるかもしれません。
でも、これもまた、受け取る側が、
「Aを選んでいない私に対して、喧嘩売ってんの!?」
と受け止めるのではなく、
「私だって本当はBではなくAという道へ進みたかった」という自分の本心に気づき、自分自身で癒す必要があります。
あるいは、どうしても辛いなら、その記事は見ない、読まないという選択で自分を守るとか…。
発信者への批判ではなく、自分の受け止め方を成長させることが必要なんですよね。
「私の地雷を踏まないで!」
と訴えても、表現の自由が保障されている限り、誰のどんな発信も、自分が傷つかないために止めてもらうことはできません。
自分の地雷は自分で撤去しない限り、永遠に周囲に対して不平不満でいっぱいな人生になってしまいます。
もちろん、発信する側にも、モラルや良識、自分の発信で不快になる人がいないかなど、さまざまな配慮が求められていることは大前提です。
人の道に外れない範囲で、何を発信するかということと同時に、何を発信しないか、ということも大事なんですよね。
私は、長年のBlog生活を通して、失敗しながら、そういうこと(人の道に外れた発信をしないとか、自分の受け止め方を成長させるとか、愚痴はできるだけ笑いに変えて…とか)を学んできたように思います。
まだたまに失敗しますけどね~(^_^;)。
あら?
何でこの話してたんでしたっけ?
着地点がわからなくなってしまいましたわ(@_@)。
最近いろんな文献を読み漁っていたせいで、ママンの頭の中でいろんな考えが渦巻いてまとまらず、ひとまず小出しにアウトプットしないと、頭がバッカーンと噴火しそうで、久しぶりにマジママンが発動してしまいました(^_^;)。
せっかくのお休みの日に最後まで読んでくださった方々、まとまらない思考(しかも長い)に付き合わせてしまい、申し訳ありませんm(_ _)m。
さて、午後は、もう少しで終わる今回の仕事を仕上げて、ぽやんちゃんと庭師のワイシャツにアイロンをかけたら、個人的な疑問の深掘り読書、再開です。
図書館に長くいると、立ちくらみが起きますわよね〜。
高校生のいる暮らし
本と共にある暮らし