今日は、最近読んだ本をご紹介したいと思います。
対話とは何か
2020年度の高校入試において、8県(山形・福島・茨城・栃木・千葉・山口・徳島・鹿児島)で使われた評論『対話をデザインする』を、今さらですが、やっと読みました。
読んでみたら、なるほど、これは(2020年度の)評論文再頻出出典というだけある、と思うところがたくさんありました。
私はブロガーの視点で読んだのですが、感じたことを、少しシェアさせてくださいね。
モノローグとダイアローグ
まず、対話とはなんぞや?という定義になりますが、端的に言うと、「相手と話すこと」ですよね。
対話とは、相手がいることが大前提であって、モノローグ(独り言)ではないはずなんですよね。
でも、著者はこう延べています。
「思ったことを感じるままに話す」ことそれ自体が悪いことだとは、わたしは決して思いません。むしろ「思ったことを感じるままに話すべき」であるとさえ思うほどです。
ただ一つ、思ったことを感じるままに話すと、それがおしゃべりになってしまうという大きな課題があります。
ここでいう「おしゃべり」とは、相手に話しているように見えながら、実際は、相手のことを考えない活動だからです。少しむずかしくいうと、他社不在の言語活動なのです。
他者をを想定しているダイアローグ(対話)と、他者を想定していないモノローグ(独り言・おしゃべり)…両者の間には、歴然とした違いがあるということなのですね。
「自分語り」の良し悪し
著者は、こんなふうにもおっしゃっています。
ちょっと余談になりますが、カルチャーセンターの講演会や大学の講義などでも、こうしたモノローグはよく見られます。本来、聴衆や学生に語りかけているはずなのだけれど、実際は、自分の関心事だけを自己満足的にとうとうと話している、これはまさにモノローグの世界ですね。
ブログやSNSは基本的に「自分語り」のプラットフォームなので、自分の記事やサイト、チャンネルでは、公序良俗に反しない限り、何を書いても言っても良いと思います。
実際、私は、いろんなブロガーさんやYouTuberさんやアーティストの方々の「自分語り」から、いつも感動や勇気や笑いをもらっているのです。
でも、例えば、人のブログやSNS、YouTubeなどのコメント欄で、相手のコンテンツの内容には一切触れずに自分のコンテンツの宣伝だけに終始するような「自分語りが過ぎる」現象も、残念ながら、あるんですよね。
受け手にも何か良いことがもたらされるといいなと思ってする「自分語り」には嫌な気持ちを抱かないけれど、受け手の気持ちを考えずに自分の承認欲求や利益だけを求めている「自分語り」には、人はうんざりしてしまうものなのでしょうか。
そう考えると、対話とは、相手の気持ちを考えない「独りよがりな自分語り」ではなく、相手の気持ちも慮り、相手がそう感じる背景(物語)をも理解し合おうとする、双方向で共感的な姿勢であり、相手を論破しようと躍起になったり、ただ言葉をこねくり回すだけの議論とは別物なのだと思います。
ねぇ、君の物語を聴かせて。
「話すこと」だけが対話なのではなくて、大事なのは「聴くこと」の方かもしれませんね。
誰でも発信できる時代だからこそ
現代は、出版社や編集者という関所?を通らなくても、誰でも出版でき、誰でも発信でき、すぐにリアクションが返ってくる時代です。
そんな時代だからこそ、発信者の良識や発信内容には責任が問われるんですよね。
あなたは対話ということばの活動によって相手との人間関係をつくっています。
対話の活動によって、人は社会の中で、他者とともに生きることを学ぶのです。
人は、対話によって、人間関係をつくる。
人は、対話によって、他者と共に生きる。
対話のような発信ができたらいいなと、思うんですけれど。
ムズカシイ…_(:3 」∠)_…。
~・☆・~・☆・~・☆・~・☆・~・☆・~
ここまで書いてきたことは、この評論のごく一部にすぎません。
でも、多くの県の高校入試でこの評論が採用された背景には、最近の中高生の多くが、誰でも簡単に「発信者」になれてしまうがゆえに、モノローグ(相手の受け止め方を想定していない自己満足的な投稿)の応酬によるSNS疲れを引き起こしていることもあるのかな、と思いました。
作題者の方々は、中高生に「対話」というものを考えてほしかったのかな、と…。
もし本当にそうだとすれば、それは中高生だけの問題ではなくて、大人も考えなければならないことなのだと思います。
誰かをやっつけようとしたり、自分の方が上だとマウントを取ったり…そんな「自分が!自分が!」病は、お互いの物語を聴き合う「対話」には程遠く…。
そんな世界にいたら、大人だって、疲れて当たり前ですもんね。
お互いの物語を聴き合い、理解し合おうとする「対話」の方向へ向かうのでなければ、他者との関わりは、消耗するだけなのではないかと思います。
「対話をデザインする」ということは、「相手との人間関係やコミュニティでの自分の立ち位置を、共感的に構築していく」ということなのでしょう。
ちょっと「自分語り」をさせていただきますと、私はもともと、ネットには疎いし、SNSも、マメにチェックしたり更新したりするタイプではありません。
議論も苦手で、政治家の議論やTVの討論番組などでも、心臓がトカトカしてきちゃうんですよね:;(∩´﹏`∩);:。
気は強いはずなのに…おかしいわね…( ̄▽ ̄;)…。
じゃぁ、なんでブログなんかやってんだ、と言われそうですが、このブログは、子ども達に、自分の母親としての想いを残したいという気持ちで始めたのです。
そして、願わくば、ママン同士で支え合えるようなことがあれば良いなと思って…。
でも、やはり発信するということは難しいことで…。
意図しない受け取り方をされて悲しくなったり、あの記事は誰かを傷つけてしまったのではないかと後からオロオロしたりというような、メンタル的な負の側面はどうしてもあるので、多くの人に読んで欲しいような、でも誰の目にもとまって欲しくないような、そんな複雑な思いを抱えながら、ブログを続けてきました。
もうすぐ5年になろうとしているブロガー生活ですが、今、この評論を読んでみて、改めて、自分の発信は何のためなのだろう?と考えさせられました。
「自分語り」でありながら、それでいて、読み手にも何か良いことをもたらす、受け手の物語が立ち上ってくるきっかけとなるような、そんな「対話」のような発信が、いつかできたらいいなと思うんですけど…。
そんな境地にたどり着く前に、ババンになっちまうのかもしれないわねΣ(゚Д゚)!
ネットのつながりが、これまで以上に大きな意味を持つ世の中になりました。
ネットでは、できるだけ、楽しいことや嬉しいことや面白いこと、共感や励まし、辛さを笑いに変えること、元気が出ること、そういったことを共有しあえたらいいなと思っています。
…長い「ママンのぐだぐだ自分語り」…お読みいただき、ありがとうございましたm(_ _)m。
高校生のいる暮らし
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