ここ数日ずっと雨が降り続けています。
昨日はとても寒くて雪になる天気予報も出ていましたが、ママン城周辺は、ずっと雨。
まだ雪の方が、外が明るい気がする"(-""-)"。
前回「放屁もとい妖精のお粉が出る音に返事をされて激怒した」などというふざけた記事を書いてしまったため ↓ 、
雨で気が沈んでいるからといって、今日はいったいどんな顔して(文章で)皆さんの前に立てば良いのやら…と、思いましたが…。
あら、そんなこと、あったかしら( ̄ー ̄)?
というモードで、しれっと行きたいと思います( ̄▽ ̄)。
今日は今日の風が吹いてるのでね٩( ᐛ )و!
氷柱(つらら)の声…聞こえますか?
『氷柱の声』(くどうれいん)
最近、本を読む暇まったくなかったのですが、Blogの投稿回数を減らしたり、読み回りの時間を決めたりして、読書の時間を捻り出しました。
そうしてやっと読んだのは、過去に、歌人やエッセイストとしてご紹介したことのある、くどうれいんさんの小説です。
内容は、東日本大震災で被災した女子高生が、大学生、社会人になっていく数年間の物語です。
この作品、主人公はれいんさんご本人がモデルなのかなと感じるところが多々あり、また、歌人らしく、擬音語が多くて特徴的です。
主人公の女子高生は、震災で被災しましたが、被災県に住んでいながら、内陸在住だったため津波の被害からは免れ、そのことで心を痛めています。
「自分は被災県に住む被災者だけれど、何も失わなかったのだから、被災者とは言えない。」
「津波の被害を負った人達ほど傷つくことができなくて、何も失わなくて、申し訳ない。」
そんな感情を持っています。
そして、
「自分ごときの被災程度で、しんどいなんて言ってはいけない。」
という思いも…。
だから、ステレオタイプの「がんばろう◯◯!」や「絆」などのメッセージをそのまま受け止めることができずに苦しみ、「辛さに負けず、前向きに夢や希望を語る女子高生」像を期待されることにも、違和感やストレスを感じ続けます。
…この気持ち、私、わかるんですよね。
私も被災県在住の被災者で、ライフラインが止まって寒さに震えたり、余震の恐怖におびえたり、家が壊れたり、知り合いが亡くなったり、過去に住んでいたアパートが流されて無くなったり…それなりに傷は負いました。
でも、津波の被害は免れたので、津波をもろにかぶる被害を受けた人、住まいを追われた人、家族を亡くした人などに比べたら、この程度の被災状況で、しんどいと口にしたり、人に助けを求めたりしたらいけないという気持ちがありました。
日本はどこにいても何かしらの災害に遭う危険があるので、地震の他にも、大雨や台風など、災害で苦しむ人は自分だけではありません。
だから、自分が被った震災はもう乗り越えて、前に進みたいと思いました。
でも、いまだに「被災者らしく」振る舞うことを期待されているのを感じ、
私はいつまで被災者でいればいいのだろう?
と思ったこともあります。
もちろん、それはあくまで私の感じ方で、中にはまだ本当に支援が必要な人も、傷が深すぎて乗り越えられていない人もいると思います。
一口に被災者と言っても、状況はさまざまだし、心情も一人ひとり違うはずなんですよね。
「被災者」として、十把一絡げに語ることはできないということです。
でも、なかなか口にできなかったこの心情をくどうれいんさんが小説にしてくれたことで、私が感じていたモヤモヤは、私だけの想いではなかったんだなと、少し気が楽になりました。
この小説の主人公は、誰より感受性が強く、本人が思うよりずっと傷ついているけれども、自分から、
「私は被災者です!かわいそうでしょう?だから助けてください!」
なんて言いません。
心の傷を、毒っ毛やユーモアでくるんで、淡々と生きています。
思い出したら泣いてしまうけど、普段は忘れたように暮らしている。
誰かを助ける立場になっても、
「自分が助けてやったんだ。」
などと、声高に主張することもしません。
黙って悲しみ、黙って人を助ける。
そういうところが、なんとも東北の人っぽいなと思うんですよね。
立場の境界線がなくなる
新型コロナウィルスは、世界中を被災地にし、世界中の人々を被災者にしました。
このことによって、「被災者側」と「被災者を支援する側」という括りは、もう必要なくなったように思います。
阪神大震災で被災した方が、
「あの時は助けてもらったから、今度は自分達が助けたい。」
と、東日本大震災の復興支援をしたり、東日本大震災で被災した人が、西日本の豪雨災害のボランティアに行ったり…。
被災者も、いつまでも助けられっぱなしではなく、自分達がまだ復興の途中でも、「お互い様」の精神で、新たな被災地を助けるアクションを起こす人もたくさんいます。
そんなふうに、
「いつ被災するか分からないという点では、みんな同じ立場だよね。だからみんなで助け合おう。」
という連帯感のようなものが生まれてきているようにも感じます。
この『氷柱の声』は、そんなことに想いをはせるきっかけとなりました。
被災するということ、また、それについての支援の在り方については、いろんな立場でいろんな考え方があると思いますが、こういう感じ方・生き方の被災者もいる、というひとつの例として、一読して損はないのではないかなと思います。
高校生のいる暮らし
本と共にある暮らし