ママンの書斎から

アラフォーママンの考えごとや読書記録

子どものうちは子どものときにしかできないことをして過ごす ~レディネスを考える~

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この間、娘の通う小学校で、来年度入学する子どもたちの就学時健診があったようです。

私自身も、息子の時と娘の時、それぞれに就学時健診を受けました。

 

息子の就学時健診でのことです。

1年生の担任の先生から、入学までに準備してくることについて、お話がありました。先生はおっしゃいました。

 

「小学校へ入学してくるまでに、ひらがなの読み書きができるようにしてきてください。」

 

これに違和感を感じた私はおかしいでしょうか?

 

当時、息子は、遊びを主体とした幼稚園に通っていたのです。

「子どもの生活はすべてが遊びで、遊びの中からすべてを学んでいく」

という理念の幼稚園でした。近所には、ドリルをやらせるような、お勉強系幼稚園もありましたが、3歳とか4歳の子どもがドリルをやるということが考えられませんでした。そういう幼稚園に適応する子どももいるのでしょうが、子ども時代は時間にもドリルにも追い立てられることなく、虫を眺めたり、折り紙を折ったり、心惹かれることに夢中になったりすることを、なにものにも邪魔されることなく育つべきだという思いがありました。子どもの本質から外れて、お勉強に追い立てられる幼児期を過ごしてしまったら、満たされなかった幼児期の欲求は、いずれぶり返して、好ましくない時期に好ましくない現れ方をするかもしれないと思いました。過去に教育機関に携わっていた経験から、私はこの考えに確信を持っています。だから、遊び主体で、お外遊びもバンバンさせる幼稚園に、自信を持って通わせていました。当然のごとく、お受験なども全く考えませんでした。

 

ところが、普通の公立小学校に入れようとしたら、入学までにひらがなを勉強してきて、と言われたのです。

幼稚園はお勉強は教えない方針でしたが、息子は、自然に覚えて自分の名前くらいは読めました。名札と下駄箱の自分の名前が読めて、絵本や看板を指さして、知っているひらがなを拾い読みする。

その程度で小学校に入学してはダメなのでしょうか。ひらがなを1から教えるのは、小学校の先生の仕事ではないでしょうか。

 

私は、自分自身が小学校に入って、担任の先生からひらがなを習った時の高揚感を、今でも覚えています。子どもなりに、日々読める字が増えていき、書けるようになって自信を持ち、勉強って楽しいと感じました。

でもそれは、私がそのとき、ひらがなを受け入れる準備が整う年齢に達していたからです。同じことを3歳4歳のころの私に授けても、受け入れて習得するどころか、私の上を上滑りして、もしかしたら勉強嫌いになっていたかもしれません。

だから息子にも、受け入れ準備が整ってから学んでほしいと思いました。受け入れ準備とは、幼児期では、興味を持っているかどうか、ということになると思います。

 

準備の整っていないところに、いろんなことを浴びせかけても、受け入れるどころか、はじいてしまいます。

この準備のことを「レディネス」と言うそうですが、逆に言うと、レディネスが整っていれば、学習の効率や定着がいい、すなわち「身につく」ということになります。

 

当時の息子は、虫捕りや工作に夢中で、ひらがなには全く興味を持っていませんでした。でも、小学校から言われたし、教えるべきかな、と悩みました。しかし、何の興味もないところに無理やり教え込んでも、覚えこそすれ楽しめないだろうな、そして、楽しめなかったという経験は、これから彼の長い勉強生活に悪影響をもたらすかもしれない、今は教えるときではないと思い、家庭でひらがなを無理やり教えることはしませんでした。

 

もしかしたら、ひらがなを習得せずに入学するのは我が子だけかもしれないと覚悟して入学させましたが、入ってみたら、ひらがなを習得していない子は息子だけではなかったし、学校でも、ちゃんと1からひらがなを教えてもらえました(就学時健診でお話された先生は、年度末に転勤されていて、別の先生が担任になっていました)。

でも、そんな悠長なことを言っていられたのは田舎だからかもしれませんね。都会では、小学校に上がる前にひらがなを習得しているなどということは、大前提なのかもしれません。

 

いずれにしろ、私の子どもたちの幼稚園時代は、できないことがあっても、

「今できなくてもいいんです。その子なりのペースがあります。できるようになる時といのは、それぞれ違うのです。」

と言ってもらえていました。だから親の私にも、子どもの育ちを待とうという気持ちがあったように思います。なのに小学校に入ったとたんに、できないことは

「できるように頑張りましょう」

に変わりました。百マス計算やら学芸会の役のオーデイションやら……

競争しない世界から、競争する世界へと、ぐいっと方向転換を強いられました。

なにものにも追い立てられない世界から、さまざまなものに追い立てられる世界へと、変わったのです。これは私達親子にとって、抵抗してもしきれない、大きな大きな転換でした。そしてその転換は、中学へ入ったら、さらに加速してきたように感じます。あれも頑張れ、これも頑張れと、何かにつけ順位をつけられて頑張らされる子どもたち。親も疲弊しています。

 

中学受験は少し考えましたが、受験に対して息子のレディネスが整っていないことを理由に、見送りました。今、まだまだ自由に遊びたい盛りのこの子を、塾や模試で埋めつくしたら、この子のおおらかさがつぶれてしまうかもしれない、と危惧したからです。自分から受験したいというのでなければ、おそらく最後まで持たないだろうと思いました。

同じ幼稚園に通っていた子どもたちのなかには、受験などのモーレツお勉強コースに路線変更していった子たちもいますが、牧歌的な幼稚園時代を過ごした子どもが、モーレツ受験社会へと足を踏み入れていくのは、いったいいつが最適なのでしょう。

 

今の日本のモーレツ受験社会は、すぐには変わらないでしょう。いつかは我が子も参戦せざるを得ない時が来ます。でも、どうせ参戦しなくてはならないのなら、できれば、周りの流れに引きずられてではなく、レディネスが整った上で、自分自身が納得して頑張れるような、そんな受験期にしてやりたいと思うのです。

幼児期は幼児期らしく、学童期は学童期らしく育ててきたつもりです。

今は思春期で難しい時期ですが、そういう時期なので、心して難しく過ごすくらいでいいのかもしれません(苦笑)。

 

鳥の雛は、産まれる準備が整うと、内側から自分で殻を破ろうとします。親鳥は、それを助けるように外側から殻をコツコツと叩きます。子どもの育ちのタイミングを親が見逃さず、少しだけ手助けしてやる。教育とは本来、このような「碎啄」であるはずです。子の準備も整わないうちに親が外側から殻をガンガンと叩いたりしてはならないのではないか……

 

「就学児健診」から、そんなことをとめどなく考えてしまいました。